ラジロースタイル

40歳でサラリーマンからFPとしてフリーランスに。自閉症スペクトラムの子育てと独居父親の介護とダブルケアを実践中。四十にして惑わずをモットーに、いろなことにチャレンジしたいおじさんです。児童福祉の現場経験が長いFP2級保持者です。

【ラジロー・ショートショート】「蟻」

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「蟻」

 新しく名刺入れを買おうと思った。
今まで使っていたのものは2年ほど前転職した際に近所の総合スーパーの紳士衣料コーナーで購入したものだ。「マリ・クレール」の名刺入れで外側はネイビー、内側がエナメル調となっている。
購入してすぐに名刺を入れる口のところの皮革がぼろぼろと崩れるようになってきた。退職してフリーランスになるので、名刺入れもきれいなものに新調し、新規顧客に対して悪印象にならないようにと考えたのだ。

 

名刺入れの口はぼろぼろだがデザインが気に入っていたので、同じ近所の総合スーパーの紳士衣料コーナーへ行って、似たような名刺入れがないか探した。
しかし、そこにあるものはブラウンやブラックなどで(マリ・クレールのものも同じであった)求めていたデザインのものはそこにはなかった。
私は2階の紳士衣料コーナーを離れ、1階にある全国チェーンの雑貨店を物色した。そこには、機能的だが安価なものからデザイン性に優れた高価な名刺入れが陳列されていた。


一通り商品をチェックし、再度2階へ上がる。店にへ来るまでは「名刺入れの購入くらい即決しよう」と決心したつもりであったが、「デザイン的なもの」「できるだけ財布にやさしいもの」となかなか交わらない二項対立に陥り、1階と2階を行き来することになった。名刺入れ選びに悩み1時間が過ぎたころ、やっと2階紳士衣料コーナーで最もデザインが気に入った「KANGOL」の名刺入れを購入することにした。色はブラックで、中はエナメル調。名刺を差し出すときに、エナメル調が見えることが一つのアクセントになるだろう、と考えたのだ。

名刺入れの購入後、私は近くのファストフード店へ移動した。移動の車中、私は購入を即決できない自分が悔しくなってきた。「これからはフリーランスになるのだ、何でも自分が判断しなければならない、即断即決で生きていくのだ」そう決意したつもりであった。バックミラーには暗黒の曇天が見えた。今にも降り出しそうな空模様であった。

 

ファストフード店につきコーヒーを注文して、一人用カウンターの右端に腰かけた。そこは目の前が大きな窓で、右側は壁になっていた。席に座ってしばらくすると、まるで風呂おけをひっくりかえしたよう大雨が降り始めた。私がこれまで経験したことがないような豪雨だ。雷も光った瞬間にものすごい雷鳴を轟かせた。あまりの豪雨にあっけにとられて窓の外を眺めていると、ふと右ひじに何かゴミがついているような感触が起こった。左手で右ひじを掻くと、左手人差し指の中腹に一匹の蟻がくるまっていた。蟻を丸めてしまったので死んでしまったと思い、蟻を床に落とした。するとその床には別の一匹の蟻が地面を這っていた。床にいる蟻なので気にせず、カバンから図書館で借りた「文学界」を取り出し、村上春樹の書いた短編の話を読んだ。

 

本を読み始めて間もなく、カウンターのすぐ目の前にある窓枠に一匹の蟻がいた。蟻がコーヒーに浮かぶことになったら嫌だなと思い、左手人差し指で蟻を押し潰した。すると蟻がもがいたので、もう一度押した。蟻は動かなくなった。そうして本を読み進めていると、右端の壁に蟻が一匹いるのが見えた。3匹目だ。今度は右手人差し指で蟻を押し潰した。蟻は床に落ちてもがいていた。ほどなくして先ほど蟻がいた窓枠に別の蟻がでてきた。ここまで蟻が出てくると私は少なからずの驚愕を覚え一瞬躊躇したが、その蟻を左手人差し指で押し潰した。4匹目の蟻も、もがいて動かなくなった。

 

私は罪悪感を感じ始めていた。5分もしないうちに4匹も立て続けに蟻を殺してしまったのだ。ふと名刺入れの購入に1時間も悩んだ自分を思い出した。そして躊躇なく蟻を殺してしまった自分がそこにはいた。1匹目の蟻は、右ひじを掻いたつもりで無意識であった。2匹目と3匹目は「コーヒーに入ったら嫌だな」という自己保身の思いから、何も考えずに殺した。4匹目の蟻を殺した自分には罪悪感を覚えた。

 

ふと窓枠を見ると5匹目の蟻が、すでにつぶされた2匹の蟻の近くにいた。すると、仲間が来たというフェロモンでも感じたのか、潰れた2匹が徐々にもがくように動きだしたのだ。

ー生きていたー

なぜかそう思った。安堵ではない、何かもう一度チャンスをもらったような、そんな気持ちがした。床を見ると、同じようにつぶれた蟻に近づく、もう一匹の蟻がいた。そして潰れた床の蟻も動き出した。

 

潰れて死んだと思った蟻は動き出して、私はその場にいることに気が引けたので、別の席に移った。私は、蟻に申し訳ないという気持で逃げる自分がおかしくなった。

 

移動した席に蟻はいなかった。私の席の隣にはブラウン色のセルフレームの眼鏡をかけた20代くらいの女性がスマホの画面を眺めていた。この女性も躊躇なく蟻を殺すのだろうか、そんなことを考えた。自分の名前を売る道具を購入するために1時間も悩んだのに、蟻を殺すことは無意識で一瞬である。だが蟻は生きていた。なんだか自分が悩んだことと、一瞬で殺生したことが恥ずかしくなってきた。自分が損得するために悩むより、誰かの役に立つかどうか悩んだほうが良い。そう思った。

 

窓の外を見るとだいぶ小雨になってきた。妻から電話がかかってきた。ものすごい渋滞で息子の帰宅に間に合いそうにない、急いで帰ることは可能かというものであった。

 

私は急いで店を出た。雷のせいか信号機が機能していないところもあり、幹線道路は大渋滞であった。これからの私の人生も、幾多の困難が立ちはだかりスムーズにいかないことも多いであろう。壁にぶつかったとき、何かの決断をするとき、心の基準は人にやさしく。蟻から学んだ。

 

                  終

 

 

(このお話はフィクションである)